2014年09月17日

保健室依存症

Bxs4oryCMAAc6Uc.jpg傘を開いて、空を」より「胡桃の中のふたり」から


7/23に作ったワートリアカウントを9/16に消しました。理由はおおむねいつものやつであり、つまり広場恐怖です。
 ブログ書いてなさすぎてなにをエントリにしてなにをエントリにしてないのかぜんぜん思い出せない次元に到達しているのでいいかげん頭から読み返さないといけないんだけどおおむねしんどいんだよね! おおむねしんどいしか書いてない気配あるからね!!
 ともあれいま広場恐怖で記事検索かけてみたら一回もちゃんと書いてなかったので広場恐怖の説明をしますがこれは「わたしの症例」であって「みんなこう」ではないと思うし、ていうかわたしの症例が広場恐怖という定義でいいのかもよくわからない。うちの主治医は病名をはっきり言わない人なんですが(なので処方された薬で病名的にはどういうあたりにあるのか自分で判断するみたいなことを……)(や、まあ、病名なんてどうでもいいんですけど、他人に説明するとき不便)、診断書が出るときには病名に広場恐怖と書いてあるのでまあ広場恐怖という診断でいいんだろうと思っているだけです。
 要するに不特定多数の群衆に対する恐怖感を定義して広場恐怖と呼ぶんだと思います。昔から群衆に対する恐怖心というのはあったんですが、パニック障害の発作(これ自体は閉所恐怖由来でした)以降加速してまあ持病ですねという感じです。一時期窓のないところにはけっして行けない、地下街で呼吸ができないというレベルでこじらせていた閉所恐怖のほうは収まって地下街のドトールで四時間(万年筆と)くだを巻くことなどが可能になりましたが、広場恐怖のほうはなんか収まらないどころかどんどんダメになってる気がするな。やばいな。どうにかしないといけないな。

 ともあれ広場恐怖がインターネットにまで敷衍され、時々、不特定多数の人が数値化されているTwitterというシステムがとても不愉快になってアカウントを消すことになります。今朝ももうひとつアカウントを消したので(liveindystopiaというほぼ閲覧専用になっていたアカウント)、明日になっても治まらなかったらついにbkydを消す流れだと思います。まあbkydもtakatouminasiもそのうち復帰させるつもりではあるんですけど。

 仕事を辞めてから二週間もたった今頃になって広場恐怖が進行しているというのはあれだ、血行が良くなったら肩凝ってることに気づくとかそういう感じで、ちょっと正気に戻ったときのほうがよりいっそうダルいみたいなことだと思います。
 あとこないだまで躁病だったから反動でダウンしてるんだと思う。



 takatouminasiというアカウントは、先日までここで実況していた小説の文脈で言うと「保健室」でした。文脈は説明しなくてもおおよそわかってくださると思うんですが、「シェルター」という言い方でもいいと思います。
 広場恐怖の症状自体はえーと8月くらいからずっと出ていて、他人こわいがあって、bkydはまあ600人くらいにフォローされているアカウントではあるのでこわいの範囲が広いわけですね、こわいの範囲が広いので、ログインできなくなって、保健室登校をしていた、つまりtakatouminasiのほうに篭っていたわけです。

 ときどき二次創作用のアカウントというのを立てるんですが、二次創作のアカウントを立てる理由は面倒くさいことに巻き込まれたり人間関係が鬱陶しくなった時にインスタントに尻尾切りをするためなんですが、しかしあれはうまくハマるとほんとうに心地よく過ごせる場所で、うまくハマるというのはつまり「余計なことは考えなければ」ということです。思想的に合致しないかどうかは考えない。許せない発言があるかどうかは考えない。わたしが嫌いなもの(コピペbotとか)をRTしていることも見逃すし、わたしにフォローの挨拶をしてくることも笑って見逃す。そこにある空気のなかの心地よい部分だけを抽出してふわふわとただよっていればいい。
 逆に言うと、ふわふわとただようことができない場合、趣味だけのつながりというのは致死的に危険なだけのものになります。趣味の合う人となんか繋がらない方が絶対に良い。趣味が合うからといって思想的にも合致する可能性はほぼ皆無だから
 保健室は無感覚になるための場所です。そこでは思考することは敵です。やさしい先生にいらっしゃいと言われて、清潔なシーツにくるまってただ眠ればいい。純化された愛だけがあればいい。純化された愛のことを萌えと言い換えてもいいです。
 愛だけがある場所でシーツにくるまって眠るのです。ほかのことは全部忘れて。具体的なことを考えると下痢が止まらなくなるのです。具体的なことを考えるのをやめなくてはならないのです。架空を生きなくてはならないのです。保健室が必要です。
 そして二次創作というものをそういう場所として愛している人はたぶん多いんじゃないかと思います。

 まあ、そういう場所で循環みたいな話を書く意義は正直、皆無だと自分でも思っていますよ。

 わたしはtakatouminasiのフォロイーさんを愛していました。真っ先にあそこから消したのは憎悪を抱きたくなかったからです。彼らがわたしにとってただの群衆(それはわたしにとって敵と等価の意味を持ちます)になってしまう前にわたしは消えなくてはならなかったので、アカウントは消滅しました。
 広場恐怖が収まったら保健室をまた取り戻しましょう。わたしには(たぶん、まだ、この先も、)保健室が必要です。



 循環という話、かなり軽い感覚ではじめた話だったはずなのに、途中からかなり明晰に「キャラクター消費なんてクソだ」という話になっていて、わたしとしてはそういう話を書けたことに満足していますが、実際問題としてわたしは湯水のようなキャラクター消費に溺れて生きているのであり、自分を殴っているのであり、そのことをおまえはどう思っているのかというところでまたひとつ苦しみがありなにをやっているんだろうなあという感じです。

 キャラクター消費はクソだと思っているが、キャラクター消費だけが保健室である。
 ダブルスタンダードだ。
posted by かなむら at 12:11| 広島 ☁| 考え方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月16日

ひとにやさしくする/される

ディスプレイの質問させていただきました者です。思い切ってポスターA1にました。悪目立ちするかと思いましたが、コミケでは全然普通でむしろ最高でした。おかげで小部数ですが完売しました。これもかなむらさんおアドバイスのおかげです。ありがとうございます。

 SUGEEEE!!!完売おめでとうございます!!A1ポスターやったことないんですよねカッケー!
 つうことでポスターは効果ありますという実例が出たということで。つうか一日目参加者さんみたいなんですが質問に答えたのが11日で、4日あればA1ポスターも刷れちゃうもんなんですねこちらこそ勉強になりました。そういや3日で上げてくれるところあるよな。わたしが上京分時間かかるから4日じゃ無理だという計算になってたのかもしれない。



 兄夫婦が来て珍しくパーティー飯などをやったのでつかれた。たいしたことやってないんだけどつかれた。今日は溜まってる人生相談に疲れてるなりにまじめに向き合う日ということで。



他人の面倒を見てしまい、大切な目標を達成できませんでした。線をひけなかった私も未熟でしたが。気持ちが落ち着きません。目標を達成できれば、自分の中で一区切りつけられるかもと思ってます。でも、時間が戻って来ないことが辛いです。

 お返事遅くなってすみません。
 ああ本当、他人の面倒を見ているあいだに過ぎてしまった時間が無為に思えることってありますね。面倒をみた他人というのはだいたいにおいてどんな場合においても面倒をみた時間をリターンしてくれるほどのなにかをくれるわけではないですからね……。
 なんていうか、「他人の面倒を見る」っていうことが「自分にとってメリットがある」と思えないと、面倒を見てはいけないもんなんだと思います。しかもこの場合のメリットというのは、そうやって人の面倒を見ることで自分の脳が整理されるとか(わたしがここでやっていることがまあそうですね)、自己承認が得られるとか、もたもたやってる人を見てイライラすることから解放されるとか、そういうレベルの、内的報酬を求めるべきであって、相手からのリターンを求めるべきじゃないんですよね……。
 ということで、その無駄だったとしか思えない時間にも何かしらの価値があるかもしれません。
 でもないかもしれません。なさそうなときは時間を無意味に美化するのもあれなので「クソが!」と叫んで現状復帰しましょう。時間は戻ってきませんが、これからの時間はまだたくさんあるはずだと思います。
 改めて目標達成できるようにお祈りしております。



優しくしてくれる人の優しさをどこかで憎んだり嫉妬したりしてしまいます。そんな自分が醜いと思ってしまい、なかなか悩みを相談できません。どうするべきでしょうか?

 ていうかそれまずかなむらに相談していいのかっていうか相談してくださってありがとうございます。
 他人にやさしい人間というのはだいたい余裕ぶっこいている人間であることが多いというのはたしかで、余裕ぶっこいている人が相談に乗るっていうのは「相談とか受けられる俺つえー」でやっている側面というのは確実にそれはあるわけで、ようするに弱い側から搾取してるんじゃんっていうのは多分にあると思います。
 しかしもちろんそれだけではない。
 さっきの人とこちらの質問はちょうど対照になっていますが、他人に頼られることによって発生するメリットというのは確実にあるし、他人に頼ることによって発生するメリットというのは確実にある。それは本人の中で発生するものであって、その「他人」によってもたらされるものでは本当はないんじゃないかと思っています。つまりようするに、フィフティフィフティなんだと思います。本来は。本来はね。
 実際のところはお互いにお互いに対する蔑視があったり一歩間違うと共依存になっちゃったりしてどちらかにしこりが残る結果になってしまいがちなわけですが、フィフティフィフティなんだということと、逆転するかもしれない関係なんだということと、べつに優しいから相談に乗ってるわけじゃなくて向こうだってそれなりのリターンがあるはずだ(もしくはリターンを与えられるはずだ)という気概をもって相談に挑みましょう。
 実際問題として、誰にも相談せずに死んでいくより相談できる相手に相談してから死ぬ(比喩)ほうが、死なずに済む方法が見つかるかもしれないという意味で前向きです。利用できるものは利用してやろうぜ。
 でも優しさというのはときに暴力ですので、あっこれ暴力じゃねえかなと思ったら(不愉快な気持ちになったら)優しさという形でマウント取られて殴られてるだけということがありますので、そのへん気をつけて、線を引きましょう。共依存は我々のすぐそばでいつも微笑んでいる。



 他人に優しくするのは気持ちが良いんですよ。みんな喜んでくれるしみんな役に立ててくれる。公衆便所と一緒です。そしてみんな殴ってくるしみんな強度を試してくる。ときどき卑猥な落書きもされる。公衆便所と一緒です。
 でも公衆便所は公衆便所というアイデンティティを生きているのであってな、そのことがダメなわけでもクソなわけでもないし、そして公衆便所であることで他人を殴ってはいけないわけだし、公衆便所は綺麗に使いましょうと主張する権利もあるわけです。そして「いつもここにいてくれてありがとう」という言葉を期待するのは公衆便所の本分ではないとわたくしは思います。でも綺麗に使おうな。

 ちなみにかなむらさんに優しくしたい時はノートでも送りつけてください。一冊でいいです。
posted by かなむら at 16:01| 広島 🌁| 考え方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月15日

生きづらいってどういうことなんだ

 長編小説書き始めるとほかのテキストなんにも書かなくなるな本当に全く。今日は小説の更新は(たぶん)ありません。エピソードが圧倒的に足りていないのでネタ出しをやり直します。

 いつもの広場恐怖というか群衆恐怖がありましてメインのTwitterアカウントに入りづらくなり(あそこはフォロワーが多すぎて発症するとログインするのがしんどくなる)、魔が差したように作ったワートリアカウントの方に入り浸って延々と萌え話をしているのですが、ワートリアカウントのほうの人々を眺めるのもじゃっかんつらい気持ちになるという段階に入っており、まあ躁の終わりということなのでいいっちゃいいんですがしんどいです。Twitterやめろ。

 躁は終わりつつあるっぽい。そして眠れなかったのはたぶん躁のせいだろうと思う。今回の躁は「睡眠時間が極端に短い」「テキストが無限に書ける」「肩こりと腱鞘炎がわからない」の3本立てでした。そして睡眠不足でメンタルと体調が完全にグダグダになっていてわりと死に近い感じがありました。
 盆休みに入ったのでだらだらしてて、うちの風呂がいま壊れてるのでスーパー銭湯に行ってジャグジー浴びて、5分100円のハンドマッサージ機にかかったらあっさり肩こりが戻ってきて、肩こりがひどいのでよく眠れるようになりました。
 今日は7時間くらい眠れた。このエントリ書いたらもう一回寝足す。肩が痛い。

 なんとなく今年は例年になく躁病がひどい気がするんだけど接客業やってるからだろうか。いやでも去年も一昨年もそのまえの年もずっと接客業やってたんだけど、でも今年になってようやく「文脈がわかった」という気はするんですよね。客前で笑うというのはどういうことかとか、どうやってものを売りつけるかとか、ようやく「わかった」ようなきがする。きがするけどしかし躁病がひどい。
 しかしまあ辞意を表明しました。泣いても笑っても9月から無職です。これまでも(ハロワ的な定義としては)無職だったんだけどな……。




 昨日さ、「鹿(※わたし)、知る限りナンバーワン生きづらい人」みたいな話があってな。
 でもわたしに限らずあらゆる種類の生きづらい人が世間にはいるわけで、つうか客前でヘラヘラ笑って話をあわせてTPOがそこそこ読めている俺は比較的生きやすいほうの人間というかコミュ強じゃないすか実質的に、なんでそういうことになるのかということについて考えたい。考えたかった。だるくてよくわからん。

 まあでも、自閉できなさというか、ヘラヘラ笑わなきゃいけないと思ってるから「生きづらい」んだろうなとは思っている。
 「たしかに俺は神かもしれないが俺が傷つかないと思わないでくれないか」という話を延々と書いているという自覚はぼんやりとあって、逆に言うと「おまえは神のような顔をしているが本当に傷ついていないのか?」という言いがかりをキャラクターに向かって発しているという傾向もあるとは思う。ただもう神である(強度の高い存在として振舞うことができる)というのはわたしの人生において変えられない要素なのでそれはもう仕方ないし、「おまえは神なのだから」と呼ばれることに対して慣れていくしかないんだろうなとは思う。
 遍在するタイプの、八百万のひとりとしてのちっぽけな神ではあるとしても、あれには強度があると認識された時点で神は神である。それは否定できない。俺を消費するなと言い聞かせても消費されるべく振舞ったのは俺のほうだ。それは俺が悪い。

 ということで生きづらいのだろうとは思う。

 東峰旭(ハイキュー)を見ていると思うわけですが(とくに3巻を)、人間が怖いのならひとりで静かに暮らしていればいいわけで、それができないのはあいつがバレーを愛してしまったからだし、バレーを愛している以上それは受け入れていくしかないですよねという話だし、人間が怖いとしても生きることを愛したのなら生きていくしかないですよねということで、誰かがおまえを神と呼ぶとき応と答えてしまったのならおまえは神でいるしかないんだよ。

 俺の話です。

 なんかもう群衆恐怖は永遠に治らないと思うんですけど(そしてそれはたぶん左翼の娘であるというカルマじゃないかと思うんですけど)、群衆恐怖を抱えながら神でいる(強度の高い人間として消費される)というのは完全に矛盾していて、でもわたしは文章を書くし、文章を書いてたくさんの人に投げつけないではいられないし、毎日更新することで脳汁がすごい出るし、Twitterでいっぱい喋るし、やめるやめるって言ってるけどTwitterもpixivもやめられないし、やめたほうがいいのに。やめたほうが(病気のためには)いいことはわかってるけどほかに楽しいこともないから仕方がないじゃないか。
 文章を書くことでしかコミュニケーションを取れなくて俺が誰なのか誰にもわかってもらえないんだから仕方がないじゃないか。

 ということで俺は俺を殴り続けるし俺は俺を殴り返すし時々躁になって時々パニックを起こしながら小さな神様として強度を消費されながらこれからも生きていくのだと思います。

 まあでも接客はやめたいというかもうちょっとヘラヘラしないで済む職種に就きたい。そんなものがあるのか?




 ようするに敷衍すると、
・社会的に求められる自分像と現実の自分像の不一致
・理想の自分像と現実の自分像の不一致
・社会的に求められる自分像と理想の自分像の不一致
 が起こると生きづらい。
 理想の自分像のほうのレベルを下げることは可能としても社会的に求められる自分像とのすり合わせをどうにかしていなくては生きづらさは治らないわけだけどまあそううまくいけばいいけどさ、みたいな話。




 時々、わたしに「みんな敵」だということを教えたのは左翼教育じゃないですかということを考えてやりきれない気持ちになるのですが、もはや左翼がわたしを救わない(それを神だと信じる強度が足りない)こともわかっているので、わたしには群衆恐怖だけが残って信じるに足る思想は残らなかったということになる。
 「敵を味方に変えていく戦い」に身を投じることはわたしにはもうできないから、みんなが敵だという感覚だけが残った。どのような美しい友情があってもみんなは敵である。そしてわたしのなかにすら敵は内在する。

 それでもコミュニケーションしなくてはならない。それゆえにコミュニケーションしなくてはならない。




「考え方」のカテゴリに入れたいけどだいたい雑談だな。まあいいや。考え方で。
posted by かなむら at 11:05| 広島 ☔| 考え方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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